2017年12月04日
今日は何の日★佐賀暦 12月1日~12月15日
お待たせしましたっ!
毎日が記念日!
幕末・維新の佐賀の八賢人の活躍と、
戦国時代の龍造寺・鍋島両家の休む間もない連戦の記録で
佐賀には365日なにかしら記念日があります。
12月1日~12月15日の出来事をご紹介します
出来事にちなんで作られた「幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊」の歴史寸劇演目のお写真もお楽しみください
12月1日
安土桃山時代1578天正6龍造寺隆信
龍造寺隆信が、筑後に進出したが戦線が芳しい結果を得られないので、筑前を視察しようと、この日、酒見の陣を払って、筑前へ。秋月種実、筑紫広門らの案内で、大友方の立花、岩屋、宝満の諸城攻めを評議するが、守りが堅いのでいったん佐賀に帰陣。「風雲 肥前戦国武将史」 P77
安土桃山時代1595文禄4鍋島直茂
秀吉が鍋島直茂に養父郡内において知行5700石を与える。佐賀県史(上巻)年表
江戸時代末期1859安政6鍋島直正

江戸城本丸炎上につき二万両を献金。郷土史に輝く人びと P48
12月2日
江戸時代末期1850嘉永3鍋島直正

鍋島直正、伊王島、神ノ島の砲台築造に着手。(本島藤大夫、田代孫三郎)鍋島閑叟(杉谷昭) P30
江戸時代末期1856安政3鍋島直正
田代孫三郎、杉谷雍助らが佐賀より江川塾へ出発する。郷土史に輝く人びと P48
江戸時代末期1862文久2鍋島直正
鍋島直正、初めて参内する。郷土史に輝く人びと P49
12月3日
室町時代1558永禄元"龍造寺隆信
神代勝利 江上"長者林の戦い・河上実相院の座主増純の斡旋で龍造寺、江上、神代、千葉、少弐の和平が整う。今後、異心あるべからずと一紙の起請文に隆信、勝利、江上武種と3人の名をつらね、神名に血を注いで、川上神社の神殿に納める。(しかし翌年正月すぐに隆信は急に軍を起して、勢福寺城を包囲。ついに江上武種は降参して筑後に落ちることになる)"龍造寺隆信 P167
「風雲 肥前戦国武将史」"
江戸時代末期1841天保12鍋島直正
鍋島直正が真田信濃守と面談。蒲池直與(なおとも)を寺社奉行にしたい、という再びの申し出を断る。(11月3日から続く)幕末の鍋島佐賀藩 P96
明治時代1876明治9大木喬任

大木喬任 司法卿として士族反乱の処罰を決め、「萩の乱」の首謀者前原一誠らを臨時裁判で斬首判決。大木喬任年譜考 P232
12月4日
明治時代1868明治元大木喬任

大木喬任 参与のまま東京府知事も兼任。(初代知事烏丸光徳の後任で2代目)大木喬任年譜考 P66
明治時代1877明治10佐野常民

佐野常民が博愛社仮事務所で第一回社員総会を開く。日赤の創始者 佐野常民 P101
12月5日
江戸時代後期1777安永6古賀穀堂
古賀穀堂が、古賀精里の長子として佐賀市西精(現在の佐賀市精町)に生まれる。幕末の鍋島佐賀藩 P13
江戸時代末期1831天保2鍋島直正
鍋島直正が伊東玄朴を藩御用一代侍に任用。鍋島閑叟(杉谷昭)巻末
明治時代1877明治10年副島種臣

清国へ再びの出国。横浜より漫遊に出る。「副島種臣と明治国家」P38
12月6日
江戸時代末期1804文化元佐賀藩
ロシア使節レザノフが長崎に来航したため、藩士数百人が長崎に出張する。楠公義祭同盟 年表
江戸時代末期1850嘉永3鍋島直正

鍋島直正が田安家の筆姫と再婚。(入輿は弘化4年12月23日)郷土史に輝く人びと P47
明治時代1871明治4久米邦武
岩倉大使遣欧使節に加わっている久米邦武がサンフランシスコへ到着。郷土史に輝く人びと P213
12月7日
江戸時代末期1814文化11鍋島直正

鍋島直正誕生。鍋島斉直の嫡子として江戸藩邸で生まれる。鍋島閑叟(杉谷昭) P229 ※11月7日説あり
江戸時代末期1831天保2鍋島直正
鍋島直正が文武に精励するよう指示をしたという記録が残る。内容的には、武芸熟達の士はいるが、どうも文の方が教える者が手薄く人物に欠けるので江戸その他へ遊学に出すよう弘道館に指示している。幕末の鍋島佐賀藩 P22
江戸時代末期1841天保12鍋島直正
鍋島直正に再び真田信濃守から使いがくる。蒲池直與(なおとも)を寺社奉行にしたい、という申し出を 越前守に話したから案じることはないと言われる。(11月3日から続く)幕末の鍋島佐賀藩 P97
江戸時代末期1856安政3島義勇

島義勇が蝦夷地に到着。鍋島閑叟(杉谷昭) P60
江戸時代末期1861文久元鍋島直正

鍋島直正が隠居して閑叟と号する。48歳。郷土史に輝く人びと P49
江戸時代末期1865慶応元江藤新平

蟄居中の江藤新平が友人の牟田口孝太郎に同道して密かに藩境を超え、太宰府に赴き、五卿流れで太宰府に来ていた三条実美に面会に行き、志を述べる。これが三条実美が江藤を信頼して後日支援するきっかけとなったとされる。また江藤はこのときのことを佐賀に帰り、副島、大隈、大木らに話し、3人は感銘をうけ、藩主を動かそうと計画を練ることになる南白江藤新平実伝 P105
明治時代1870明治3鍋島直正
鍋島直正の病状が悪化。郷土史に輝く人びと P50
明治時代1902明治35佐野常民

佐野常民没(81歳)麹町区三年町の自宅にて。(享年79歳とも書かれている)佐賀市史3 年表 「日赤の創始者 佐野常民」 P207
12月8日
江戸時代末期1854安政元荒井石見守
長崎奉行荒井石見守が佐賀に立ち寄る。プチャーチンからの修交を求められていて、先に佐賀に入った川路奉行らが直正らと相談していたが、荒井石見守がついに佐賀についたので、幕府方が全員そろい、急ぎ長崎に向かう。われらの郷土 昔の今日 1月の巻
12月9日
安土桃山時代1579天正7龍造寺隆信
田尻鑑種が龍造寺氏に通じ、両者起請文をとりかわす。佐賀県史(上巻)年表
江戸時代末期1867慶応3大隈重信

大隈重信が京都で王政復古大号令を聞く。※その後急きょ佐賀に帰藩、鍋島直正との会見を申し入れ、執政原田小四郎の尽力で請役以下藩政府要員列席の下、異例の会見が実現することになる。"鍋島閑叟(杉谷昭) P60
※後は楠公義祭同盟 年表。日付については、年表では12月9日以降と記されている。12月26日の自由行動許可につながる。
"
12月10日
江戸時代初期1637寛永14鍋島元茂
鍋島元茂、原城下大江浜に陣す。ネット年表
12月11日
安土桃山時代1577天正5龍造寺隆信
龍造寺隆信が今里弁都ら萱瀬衆と長崎県大村市宮代町付近で戦う。「朝追い岳の戦い」。この日より2日間闘うが結局龍造寺の勝利となる。地域別・肥前戦国合戦記(佐賀・長崎県下 長崎県 P598
12月12日
江戸時代末期1850嘉永3鍋島直正

佐賀藩、反射炉溶鉄を初めて行ったが失敗。鍋島閑叟(杉谷昭) P28
明治時代1896明治29佐野常民

佐野常民73歳。40日間におよぶ最後の九州巡行を終えてこの日に帰京。
▲歴史寸劇「故郷(くに)ば、錦で。」は、この時の九州巡行のある一日の御話です
12月13日
安土桃山時代1575天正3龍造寺隆信 大村純忠
龍造寺隆信、大村方の萱牟田城を襲撃。龍造寺隆信 P293
12月14日
江戸時代末期1818文政元
この年の人別銀、一人二匁。ネット年表
明治時代1868明治元鍋島直正
鍋島直正が入京。 15日参内郷土史に輝く人びと P50
明治時代1875明治8大木喬任

大木喬任が刑法草案第三章28条9条において、議論のみ多くして無益に時日を費やすとして、この日より、係員が下調べをしてそれをもとにして各員の合議をするスタイルに改めた。そうして「日本帝国刑法初案」を起草編纂することとなった。大木喬任年譜考 P208
明治時代1876明治9大木喬任
大木喬任が前原一誠らが起こした萩の乱の戦後処理を司法卿として行ない、この日帰京。裁判においては、処刑直前に酒と生卵がふるまわれて酒宴を催すなど、大久保利通が裁いた「佐賀の役」とは対照的に温かい対応だったという。大木喬任年譜考 P235
明治時代1891明治24大木喬任

大木喬任が中学校令を改定。森有礼が1886年に設定した内容のうち、一府県一校設置を撤廃し、数校設置を認める。また一校も設置しなくてもいいとした。このことにより、尋常中学校は質量ともに拡大した。大木喬任年譜考 P495
12月15日
江戸時代末期1831天保2伊東玄朴
伊東玄朴(蘭医)が藩御用一代侍に召抱えられる(直正の深い配慮?)佐賀県史(中巻)年表
明治時代1868明治元鍋島直正
鍋島直正が参内。郷土史に輝く人びと P50
毎日が記念日!
幕末・維新の佐賀の八賢人の活躍と、
戦国時代の龍造寺・鍋島両家の休む間もない連戦の記録で
佐賀には365日なにかしら記念日があります。
12月1日~12月15日の出来事をご紹介します
出来事にちなんで作られた「幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊」の歴史寸劇演目のお写真もお楽しみください
12月1日
安土桃山時代1578天正6龍造寺隆信
龍造寺隆信が、筑後に進出したが戦線が芳しい結果を得られないので、筑前を視察しようと、この日、酒見の陣を払って、筑前へ。秋月種実、筑紫広門らの案内で、大友方の立花、岩屋、宝満の諸城攻めを評議するが、守りが堅いのでいったん佐賀に帰陣。「風雲 肥前戦国武将史」 P77
安土桃山時代1595文禄4鍋島直茂
秀吉が鍋島直茂に養父郡内において知行5700石を与える。佐賀県史(上巻)年表
江戸時代末期1859安政6鍋島直正

江戸城本丸炎上につき二万両を献金。郷土史に輝く人びと P48
12月2日
江戸時代末期1850嘉永3鍋島直正

鍋島直正、伊王島、神ノ島の砲台築造に着手。(本島藤大夫、田代孫三郎)鍋島閑叟(杉谷昭) P30
江戸時代末期1856安政3鍋島直正
田代孫三郎、杉谷雍助らが佐賀より江川塾へ出発する。郷土史に輝く人びと P48
江戸時代末期1862文久2鍋島直正
鍋島直正、初めて参内する。郷土史に輝く人びと P49
12月3日
室町時代1558永禄元"龍造寺隆信
神代勝利 江上"長者林の戦い・河上実相院の座主増純の斡旋で龍造寺、江上、神代、千葉、少弐の和平が整う。今後、異心あるべからずと一紙の起請文に隆信、勝利、江上武種と3人の名をつらね、神名に血を注いで、川上神社の神殿に納める。(しかし翌年正月すぐに隆信は急に軍を起して、勢福寺城を包囲。ついに江上武種は降参して筑後に落ちることになる)"龍造寺隆信 P167
「風雲 肥前戦国武将史」"
江戸時代末期1841天保12鍋島直正
鍋島直正が真田信濃守と面談。蒲池直與(なおとも)を寺社奉行にしたい、という再びの申し出を断る。(11月3日から続く)幕末の鍋島佐賀藩 P96
明治時代1876明治9大木喬任

大木喬任 司法卿として士族反乱の処罰を決め、「萩の乱」の首謀者前原一誠らを臨時裁判で斬首判決。大木喬任年譜考 P232
12月4日
明治時代1868明治元大木喬任

大木喬任 参与のまま東京府知事も兼任。(初代知事烏丸光徳の後任で2代目)大木喬任年譜考 P66
明治時代1877明治10佐野常民

佐野常民が博愛社仮事務所で第一回社員総会を開く。日赤の創始者 佐野常民 P101
12月5日
江戸時代後期1777安永6古賀穀堂
古賀穀堂が、古賀精里の長子として佐賀市西精(現在の佐賀市精町)に生まれる。幕末の鍋島佐賀藩 P13
江戸時代末期1831天保2鍋島直正
鍋島直正が伊東玄朴を藩御用一代侍に任用。鍋島閑叟(杉谷昭)巻末
明治時代1877明治10年副島種臣

清国へ再びの出国。横浜より漫遊に出る。「副島種臣と明治国家」P38
12月6日
江戸時代末期1804文化元佐賀藩
ロシア使節レザノフが長崎に来航したため、藩士数百人が長崎に出張する。楠公義祭同盟 年表
江戸時代末期1850嘉永3鍋島直正

鍋島直正が田安家の筆姫と再婚。(入輿は弘化4年12月23日)郷土史に輝く人びと P47
明治時代1871明治4久米邦武
岩倉大使遣欧使節に加わっている久米邦武がサンフランシスコへ到着。郷土史に輝く人びと P213
12月7日
江戸時代末期1814文化11鍋島直正

鍋島直正誕生。鍋島斉直の嫡子として江戸藩邸で生まれる。鍋島閑叟(杉谷昭) P229 ※11月7日説あり
江戸時代末期1831天保2鍋島直正
鍋島直正が文武に精励するよう指示をしたという記録が残る。内容的には、武芸熟達の士はいるが、どうも文の方が教える者が手薄く人物に欠けるので江戸その他へ遊学に出すよう弘道館に指示している。幕末の鍋島佐賀藩 P22
江戸時代末期1841天保12鍋島直正
鍋島直正に再び真田信濃守から使いがくる。蒲池直與(なおとも)を寺社奉行にしたい、という申し出を 越前守に話したから案じることはないと言われる。(11月3日から続く)幕末の鍋島佐賀藩 P97
江戸時代末期1856安政3島義勇

島義勇が蝦夷地に到着。鍋島閑叟(杉谷昭) P60
江戸時代末期1861文久元鍋島直正

鍋島直正が隠居して閑叟と号する。48歳。郷土史に輝く人びと P49
江戸時代末期1865慶応元江藤新平

蟄居中の江藤新平が友人の牟田口孝太郎に同道して密かに藩境を超え、太宰府に赴き、五卿流れで太宰府に来ていた三条実美に面会に行き、志を述べる。これが三条実美が江藤を信頼して後日支援するきっかけとなったとされる。また江藤はこのときのことを佐賀に帰り、副島、大隈、大木らに話し、3人は感銘をうけ、藩主を動かそうと計画を練ることになる南白江藤新平実伝 P105
明治時代1870明治3鍋島直正
鍋島直正の病状が悪化。郷土史に輝く人びと P50
明治時代1902明治35佐野常民

佐野常民没(81歳)麹町区三年町の自宅にて。(享年79歳とも書かれている)佐賀市史3 年表 「日赤の創始者 佐野常民」 P207
12月8日
江戸時代末期1854安政元荒井石見守
長崎奉行荒井石見守が佐賀に立ち寄る。プチャーチンからの修交を求められていて、先に佐賀に入った川路奉行らが直正らと相談していたが、荒井石見守がついに佐賀についたので、幕府方が全員そろい、急ぎ長崎に向かう。われらの郷土 昔の今日 1月の巻
12月9日
安土桃山時代1579天正7龍造寺隆信
田尻鑑種が龍造寺氏に通じ、両者起請文をとりかわす。佐賀県史(上巻)年表
江戸時代末期1867慶応3大隈重信

大隈重信が京都で王政復古大号令を聞く。※その後急きょ佐賀に帰藩、鍋島直正との会見を申し入れ、執政原田小四郎の尽力で請役以下藩政府要員列席の下、異例の会見が実現することになる。"鍋島閑叟(杉谷昭) P60
※後は楠公義祭同盟 年表。日付については、年表では12月9日以降と記されている。12月26日の自由行動許可につながる。
"
12月10日
江戸時代初期1637寛永14鍋島元茂
鍋島元茂、原城下大江浜に陣す。ネット年表
12月11日
安土桃山時代1577天正5龍造寺隆信
龍造寺隆信が今里弁都ら萱瀬衆と長崎県大村市宮代町付近で戦う。「朝追い岳の戦い」。この日より2日間闘うが結局龍造寺の勝利となる。地域別・肥前戦国合戦記(佐賀・長崎県下 長崎県 P598
12月12日
江戸時代末期1850嘉永3鍋島直正

佐賀藩、反射炉溶鉄を初めて行ったが失敗。鍋島閑叟(杉谷昭) P28
明治時代1896明治29佐野常民

佐野常民73歳。40日間におよぶ最後の九州巡行を終えてこの日に帰京。
▲歴史寸劇「故郷(くに)ば、錦で。」は、この時の九州巡行のある一日の御話です
12月13日
安土桃山時代1575天正3龍造寺隆信 大村純忠
龍造寺隆信、大村方の萱牟田城を襲撃。龍造寺隆信 P293
12月14日
江戸時代末期1818文政元
この年の人別銀、一人二匁。ネット年表
明治時代1868明治元鍋島直正
鍋島直正が入京。 15日参内郷土史に輝く人びと P50
明治時代1875明治8大木喬任

大木喬任が刑法草案第三章28条9条において、議論のみ多くして無益に時日を費やすとして、この日より、係員が下調べをしてそれをもとにして各員の合議をするスタイルに改めた。そうして「日本帝国刑法初案」を起草編纂することとなった。大木喬任年譜考 P208
明治時代1876明治9大木喬任
大木喬任が前原一誠らが起こした萩の乱の戦後処理を司法卿として行ない、この日帰京。裁判においては、処刑直前に酒と生卵がふるまわれて酒宴を催すなど、大久保利通が裁いた「佐賀の役」とは対照的に温かい対応だったという。大木喬任年譜考 P235
明治時代1891明治24大木喬任

大木喬任が中学校令を改定。森有礼が1886年に設定した内容のうち、一府県一校設置を撤廃し、数校設置を認める。また一校も設置しなくてもいいとした。このことにより、尋常中学校は質量ともに拡大した。大木喬任年譜考 P495
12月15日
江戸時代末期1831天保2伊東玄朴
伊東玄朴(蘭医)が藩御用一代侍に召抱えられる(直正の深い配慮?)佐賀県史(中巻)年表
明治時代1868明治元鍋島直正
鍋島直正が参内。郷土史に輝く人びと P50
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
|
|
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。