2017年09月16日
今日は何の日?佐賀暦 9月16日~30日の巻
毎日が記念日!
幕末・維新の佐賀の八賢人の活躍と、
戦国時代の龍造寺・鍋島両家の休む間もない連戦の記録で
佐賀には365日なにかしら記念日があります。
9月16日~9月30日の出来事をご紹介します
出来事にちなんで作られた「幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊」の
歴史寸劇演目のお写真もお楽しみください
9月16日
室町時代1558永禄元龍造寺勢 神代勝利
早暁、佐賀勢が名尾峠を馳せ登ると、神代勢が一勢に猛攻撃。この戦いで薩摩伊集院の弟にあたる阿含坊というものが鉄砲を打ちまくったので、佐賀勢は大崩。小川信安ほか名だたる龍造寺の将が討死。残りの士卒はことごとく南の谷底に追い落とされ、流血は何が和を染め、屍は累々と谷を埋めた。「春日山若武者先に落とされて、又清恥かくぞ金鋪」との狂歌がよまれた。春日山城とはこの戦いのきっかけとなった、小川信安らが神代から駆逐されたときに守っていた城のこと。「風雲 肥前戦国武将史」 P55
江戸時代末期1835天保6古賀穀堂
古賀穀堂、死去。 60歳 (佐賀偉人伝 生馬寛信著「古賀穀堂」巻末年表より)
"幕末の鍋島佐賀藩 P65では9月24日、※佐賀県史(中)では9月26日没(P330 ネットでは9月16日"

▲古賀穀堂(歴史寸劇「あまねく人を、」より)
9月17日
安土桃山時代1597慶長2"鍋島直茂
勝茂及び龍造寺軍"慶長の役・左軍の諸将が集まった前日の井邑(チョンウプ)会議において、全羅道での受持ち地域が決まった鍋島勝茂が明日(18日)陣変えをすることを、国元の家老に文で送る。文禄・慶長の役 P209
9月18日
江戸時代末期1634寛永11成富兵庫茂安
成富茂安 没。 75歳佐賀市史 その2 年表
明治時代1870明治3江藤新平
江藤新平、民法の大切さを知り、啓蒙のため、第一回民法会議(民法典編纂委員会)を開く。※日本で民法ができる27年前。幕末維新と佐賀藩 P128

▲民法の父と言われる江藤新平
9月19日
江戸時代末期1844天保15鍋島直正
鍋島直正が31名の家臣を伴い長崎に来航したパレンバン号(オランダ船)に奉行の許可を得て乗り込み、五時間にわたり大砲の操作や軍事訓練の様子を見学する。鍋島閑叟(杉谷昭) P21

▲鍋島直正は開明を旨として佐賀藩を牽引する
明治時代1870明治3大木喬任
大木喬任、平民(町人・百姓)が姓を名乗ることを許す。(細川潤次郎の建議書の余白にびっちり補足を書く強い推薦ぶりが語り草になっている。)大木喬任年譜考 P85

▲大木の思想には人道主義が色濃く見える
明治時代1890 明治23佐野常民
日本赤十字社が最初の国際救援に向かった日。9月16日午後4時に和歌山県大島の樫野崎灯台沖で沈没したトルコ軍艦エルトゥールル号の乗組員の看護。飯田橋の日本赤十字社病院の医院と看護婦2人ずつが出発。(治療開始は21日より)日赤の創始者 佐野常民 P165

▲佐野常民の赤十字のこの働きが、今に続くトルコとの友好関係を築くこととなる
9月20日
江戸時代末期1853嘉永6鍋島直正
鍋島直正が、江戸中村座上演の藩祖直茂巷説「花嵯峨猫魔稗史」を中止させる。佐賀県史(中巻) 年表

▲俗に言う「佐賀の化け猫騒動」の風評は200年余りを過ぎた鍋島直正の時代にも巷では知られていた
明治時代1868明治元佐賀藩
佐賀藩が227年続いた長崎警備の任を解かれる。われらの郷土 昔の今日 ○月の巻

▲八賢人の中では島義勇が一時期警備隊の隊長を務めた。歴史寸劇「あの夜のままで。」は長崎警備隊の隊長時代の長崎が舞台に
9月21日
江戸時代末期1845弘化2鍋島直正
長崎にてオランダ船に乗り込み、西洋軍艦の内部を視察する。オランダ側の使節コープスは大歓迎する。幕末維新と佐賀藩 P34
明治時代1877明治10副島種臣
西南戦争で西郷が自刀する三日前、副島種臣への遺言を岡部という人物に頼む。「慎みて「勿死工夫」をしろ」とのこと。副島種臣と明治国家 P57

▲歴史寸劇「あの夜のままで。」の副島種臣。ラストシーンでは、この時のエピソードも紹介される
明治時代1890明治23佐野常民
日本赤十字社が最初の国際救援を開始した日。9月16日午後4時に和歌山県大島の樫野崎灯台沖で沈没したトルコ軍艦エルトゥールル号の乗組員の看護。飯田橋の日本赤十字社病院の医院と看護婦2人づつがこの日現地で治療開始。日赤の創始者 佐野常民 P166

9月22日
江戸時代末期1839天保10鍋島直正
鍋島直正、先の6月5日に参勤免除をいただくが、家斉のご霊前にお参りしたいとの旨で、参勤免除を返上。この日江戸に向けて出発する。幕末の鍋島佐賀藩 P93

明治時代1876明治9年副島種臣
副島種臣、清国漫遊の前に神戸湊川神社に参詣する。(湊川神社は明治5年に楠正成を祭神として創建されている)「副島種臣と明治国家」P38

▲副島の楠正成を崇拝する姿勢は、兄枝吉神陽の影響が大きい(枝吉と副島の兄弟の絆を描く寸劇「もらい風呂」より)
9月23日
明治時代1868明治元鍋島茂昌
鍋島茂昌たちが攻めた庄内軍、戊辰戦争において降伏。鍋島閑叟(杉谷昭) P174
明治時代1877明治10年副島種臣
副島種臣、一回目の清国漫遊から戻り神戸湊川神社に参詣する。(湊川神社は明治5年に楠正成を祭神として創建されている) 翌日も参る「副島種臣と明治国家」P38

9月24日
江戸時代末期1830文政13鍋島直正
直正、藩主就任半年にして3度目の長崎巡視からこの日佐賀城に戻る
江戸時代末期1860万延元大木喬任
大木喬任(29才)の母 シカ子が死去。大木喬任年譜考 P23

">▲生前の母の面影をひとり語りする最晩年の大木喬任(歴史寸劇「まるぼうろ」より)。大木喬任は母から溢れんばかりの愛情を注がれて育ったとされることが、いくつかのエピソードからわかる
江戸時代末期1861文久元鍋島直正
直正が、遣欧使節に岡鹿之助、石黒寛次、川崎道民らを随行させる。郷土史に輝く人びと P49
明治時代1877明治10年副島種臣
副島種臣、一回目の清国漫遊から戻り神戸湊川神社に前日に引き続き参詣する。(湊川神社は明治5年に楠正成を祭神として創建されている)「副島種臣と明治国家」P38
9月25日
安土桃山時代1600慶長5鍋島勝茂
鍋島勝茂が家康より立花征伐の命令を受け、帰国の途につく。われらの郷土 昔の今日 ○月の巻
江戸時代初期1608慶長13山本常朝
山本常朝の祖父、中野神右衛門清明が、遠州浜松で同僚の小川右馬允を殺害。徳川家康の駿府城普請作業中に侮辱を受けたのが理由。出頭するがお目こぼしにあう。われらの郷土 昔の今日 ○月の巻
江戸時代末期1867慶応3鍋島直正
鍋島直正が塚崎温泉(現武雄温泉)入湯。郷土史に輝く人びと
9月26日
室町時代1553天文22龍造寺隆信
城原の江上武種が龍造寺隆信に降伏。龍造寺隆信 P131
明治時代1899明治32大木喬任
大木喬任 自宅にて死去 午前1時34分。大木喬任年譜考 P542

▲晩年は御仏の世界と国造りとを合体させた独自の思想を生み出そうとしていた大木喬任
9月27日
安土桃山時代1584天正12龍造寺政家
龍造寺政家、肥後を島津義久に渡して和睦。ネット年表
江戸時代末期1808文化5佐賀藩
フェートン号事件の不始末により長崎番所の番頭、佐賀藩士千葉三郎左衛門胤明と蒲原次右衛門好古の2名が切腹を命じられる。佐賀県史(中) P325
9月28日
明治時代1868明治元"鍋島茂昌 武雄隊
佐賀本藩隊"戊辰戦争・大師堂・観音森の戦(9月27~)。ネット年表
9月29日
江戸時代末期1834天保5鍋島直正
佐賀藩、市中郷村取締令を出し、「農商引分」を励行させる。ネット年表
9月30日
江戸時代末期1861文久元中牟田倉之助
中牟田倉之助が遣欧使節の随行を命じられるが、減員のため選からもれる。われらの郷土 昔の今日 ○月の巻
Posted by 幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊 at 18:52 | Comments(0) | 佐賀暦
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