2017年07月16日
今日は何の日「佐賀暦」7月16日~7月31日
佐賀は明治新国家の礎を築いた8人もの賢人を輩出したまち。
彼らは命の灯が燃える間に、大急ぎで国造りに奔走しました。
ですから、賢人にゆかりのある日を調べて、
さらに、龍造寺、鍋島と続く佐賀の戦国時代の躍動とあわせると
一年365日、毎日なにかしら歴史上の出来事が起こっているのです。
そこで作った「佐賀暦」。
ぜひ、「今日は何の日?」と楽しんでいただければ幸いです。
幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊の、それら出来事に関係する上演の様子とともにお楽しみください。

7月16日
江戸時代後期1763宝歴13売茶翁
売茶翁 没。 89歳ウィキペディア

▲「12賢人バッジ」の売茶翁(12賢人バッジは、佐賀城本丸歴史館で購入できます(1個100円)
売茶翁について (肥前通仙亭さんのHP)
http://www.kouyugaibaisao.com/whats/index.html
7月16日
江戸時代末期1834天保5鍋島直正
鍋島直正、八幡小路に医学寮を建てる。幕末の鍋島佐賀藩 P35
★現代の好生館につながっています。
好生館(現在の佐賀県医療センター)の歴史がわかるHPです
http://www.koseikan.jp/about/history/history/index.html
好生館180周年祝賀会では
おもてなし隊の役者らが出演しておもてなし隊のプロデューサーの桜井が脚本を書いたオリジナル書下ろし劇「あまねく人を」という好生館の偉人たちを演じた大河劇も上演いたしました

▲当日の様子。写真ご提供は12賢人の一人「相良知安」のご子孫、相良隆弘さん

▲「12賢人バッジ 相良知安(12賢人バッジは、佐賀城本丸歴史館で購入できます(1個100円)
相良知安についてのHP(相良隆弘さん作成)
http://sagarachian.jp/main/1.html
江戸時代末期1867慶応3鍋島直正
鍋島直正が徳川慶喜と会談。長州処分の意見を発表。鍋島閑叟(杉谷昭)巻末

▲副島種臣、江藤新平らが京都で奔走するが、結局は長州を征伐する兵を集めることとなる
(歴史寸劇「良いではないか?」の一幕より。京都の貴族から長州征伐のための兵を集めるよう指弾される副島種臣)
明治時代1868明治元鍋島直正
鍋島直正が帰城。郷土史に輝く人びと P50

▲佐賀城の石垣と鍋島直正
明治時代1898明治31大木喬任
民法全編が整い、施行開始。大木喬任年譜考 P537

▲大木喬任、地味ながらコツコツと
7月17日
江戸時代末期1852嘉永5鍋島直正
鍋島直正が作らせた大砲のうち第14番目が完成。やっと使える大砲が誕生。幕末維新と佐賀藩 P39


▲「人は熱でできている」(歴史寸劇「茶飲みに来んか?」で反射炉と人の在り方を江藤、大木に説く鍋島直正)
明治時代1868明治元大木喬任 江藤新平
江藤、大木らの努力が実り、江戸は東京と改称される。(東京遷都へ)大木喬任年譜考 P46

▲東京遷都のアイディアを聞いてもらおうと鍋島直正のもとを訪れる江藤新平と大木喬任(歴史寸劇「茶飲みに来んか?」より)
明治時代1884明治17副島種臣
副島種臣、大木、大隈に10日遅れて伯爵位を授けられる。大木喬任年譜考 P365

▲明治の政府機能の組織をほぼ一人で考案した副島種臣。若い頃の劣等感をふりほどき、やがて当代一の知識人となる
7月18日
明治時代1871明治4江藤新平
「大学」が廃止。かわって「文部省」が創設され、初代文部大輔(卿は不在)に江藤新平がなる。※江藤新平はわずか10日間の就任だったがその間に才腕を振るう。文部省官制、職務規定、権限などを定めた。大木喬任年譜考 P94

▲蘭学舎で勉学に励む江藤新平。需骨としての生涯を駆け抜けた(歴史寸劇「ならば需骨よ」より)
7月19日
室町時代1550天文19龍造寺隆信
龍造寺胤信は大内義隆に偏きを与えられ隆胤、ついで、この19日に隆信と名乗る。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P84
江戸時代末期1864元治元年江藤新平
1862年6月27日の脱藩の罪で、永蟄居の刑を受けていたが、この日に刑を解かれる佐賀偉人伝「江藤新平」P27

▲謹慎中にもかかわらず、牛津の宿に現れた江藤新平 お面をつけてばれないつもりでいる(歴史寸劇「聞き耳えびす」より)
江戸時代末期1867慶応3鍋島直正
鍋島直正が二条城で将軍(徳川慶喜)と会う。郷土史に輝く人びと P49
7月20日
江戸時代末期1854嘉永7鍋島直正
佐賀藩士、本島藤太夫、杉谷擁(手編とる)介、中村奇輔らが蘭館で鋳砲技術の伝授を受ける。7日間。(7月6日に幕府が大砲200門を佐賀藩に製造依頼をしたため許可された)鍋島閑叟(杉谷昭) P24
明治時代1869明治2島義勇
島義勇が北海道開拓使判官に任じられる。佐賀市史その3 年表

▲「札幌のまちを世界中の人に見せてやりたかった・・」敗色色濃い戦場の片隅で、人生を振り返る島義勇。(歴史寸劇「さがんもん」より)
明治時代1888明治21佐野常民
佐野常民の日本赤十字社が初の災害救護事業を実施することになる。7月15日朝7時45分に突如大噴火をはじめた会津磐梯山の惨事にたいし、この日救護員は東京を出発。日赤の創始者 佐野常民 P162

▲熊本地震の際に本丸歴史館の観客の皆様から預かった義捐金をもち
熊本の赤十字を訪れた佐野常民役鷹巣将弥と日本赤十字記念館(熊本市内)
7月21日
安土桃山時代1579天正7龍造寺隆信
龍造寺隆信、伊駒野城主川崎鎮堯征伐。成富信安の活躍により、落城。"龍造寺隆信 P319 「風雲 肥前戦国武将史」 P80 "
安土桃山時代1583天正11龍造寺隆信 鍋島直茂
昨年暮れに龍造寺を断ち、島津氏に通じて叛旗を翻したため、龍造寺に攻められ孤立無援となった鷹尾城の田尻鑑種が龍造寺隆信に起請文を提出して和議成立する。(ただし、和議の条件が煮詰まらなかった内に、豊後から大友軍援軍の報告や島津軍からの兵糧搬入の報が入り、1か月ほど後に再び叛き戦いが再開される(~12月25日和睦、田尻の所領換えに終わり、筑後の田尻氏の抵抗は完全に終止符が打たれる)史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P146
安土桃山時代1592天正20"鍋島直茂 鍋島・龍造寺軍"
文禄の役・オランカイに北上する加藤清正の軍とわかれた鍋島直茂の軍が咸鏡道(ハムギョンド)攻略のため、安辺を発って、この日咸興(ハムフン)に入る。文禄・慶長の役(吉川弘文館) P66
明治時代1888明治21佐野常民
佐野常民の日本赤十字社が初の災害救護事業を実施することになる。7月15日朝7時45分に突如大噴火をはじめた会津磐梯山の惨事にたいし、昨日東京を発した救護員は郡山からは徒歩で峠を越え、この日に猪苗代町に達する。日赤の創始者 佐野常民 P162

▲日本赤十字設立の思いを語る佐野常民(歴史寸劇「良いではないか。」のラストシーンより)
7月22日
安土桃山時代1600 慶長 鍋島勝茂
西軍が東軍の伏見城攻めをこの日はじめる。鍋島勝茂軍も勇躍したため、秀家からの信頼は一層厚くなり、鈴鹿峠を超えて伊勢に進撃する際には先陣の大将を命じられた葉隠物語 P74
江戸時代末期1855安政2枝吉神楊
枝吉神楊、吉田松陰に「奇男子」と称される。(「西遊日記」「吉田松陰全集第10巻」) 会ったのは1850年12月20日~24日の間と思われる(松陰の日記より)楠公義祭同盟

▲「九州に行くなら、佐賀でこの人に会いなさい」と吉田松蔭が奨めたと言われる枝吉神陽(シルエット)
7月23日
江戸時代末期1867慶応3鍋島直正
鍋島直正 はじめて明治天皇に拝謁。※他に京都滞在中に慶喜と会見するが、内容を志士等に明かさず、29日しか京都に滞在せず帰国。大木らは失望する。"大木喬任年譜考 P36※は楠公義祭同盟"

▲幕末から維新にかけてこの人の挙動が注目され、なかなか考えが理解されず、「肥前の妖怪」との異名さえついた鍋島直正
明治時代1870明治3佐野常民
兵部少丞佐野常民が海軍建設の準備のためオランダ人E.W.スヘメールと英国人T.スノードンの二人を兵部省に雇い入れた。日赤の創始者 佐野常民 P49
7月24日
室町時代1570元亀元龍造寺隆信 大友宗麟
大友宗麟は水軍で佐賀城を南から浮盃津に三度目の攻撃。三たび撃退龍造寺隆信 P224
明治時代1888明治21佐野常民
佐野常民が日本赤十字の初の災害救護事業の現場となって3日前からはじまっている猪苗代地帯の救護の現場に赴く(たまたま仙台に出張していた帰り)。福島県知事にあって皇后陛下の思し召しを伝え、負傷者を慰問して、華族から委託された救恤金(きゅうじつきん)を渡すなどする。日赤の創始者 佐野常民 P162
7月25日
室町時代1553天文22龍造寺隆信
龍造寺隆信、一木村を出立して川副に再上陸開始。(鹿江兼明の船にて)龍造寺隆信 P126
室町時代1563永禄6龍造寺隆信
龍造寺側の謀略により不意打ちを食らった多久・有馬連合軍が激怒して、島原弥助を大将として砥川へ攻め寄せ一大決戦を挑むが、龍造寺側は地形に詳しく、丹坂口でこれを撃退、龍造寺側の大勝利に終わる。(百合野の戦いともいわれる)"龍造寺隆信 P190
「風雲 肥前戦国武将史」 61P"
江戸時代末期1861文久元鍋島直正
鍋島直正、三重津に汽鏙製造所を建てる。佐賀県史(中巻) 年表

▲「三重津じゃ、おぬしの故郷の三重津に海軍所を造れ」殿から命を受けた佐野常民(歴史寸劇「蝶よ、渡れ」より)
安土桃山時代又室町時代1586 OR1569天正14 又永禄12鍋島直茂
岩屋城にこもる高橋鑑雲に対して、島津の攻勢の前に、龍造寺軍の後藤、田尻らが攻撃をしかける。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P199
7月26日
江戸時代初期1607慶長12鍋島直茂
3月の隆造寺高房の自殺未遂に対して、鍋島直茂が俗に「おうらみ状」と認知されている書状をしたためる。初期の鍋島佐賀藩 P273
江戸時代後期1864元治元年鍋島直正
京都の政変(7月18日の禁門の変)の報が佐賀藩首脳部の届く 佐賀偉人伝「江藤新平」P33
7月27日
室町時代1553天文12龍造寺隆信
龍造寺隆信、鹿江の威徳寺に着して挙兵。「飯盛城の戦い」(いさかり)"龍造寺隆信 P126 地域別・肥前戦国合戦記(佐賀・長崎県)上 佐賀県1 P44"
室町時代1570元亀元龍造寺隆信 大友宗麟
大友宗麟は水軍で佐賀城を南から攻撃。浮盃津から再来襲。再び、撃退。龍造寺隆信 P224
江戸時代初期1627寛永4鍋島勝茂
衣装制度、祝儀音信振舞定、屋造掟、過代条目を出す。ネット年表
江戸時代後期1864元治元年江藤、大隈、副島、島、大木ら
京都の政変(7月18日の禁門の変)の報が志士たちに伝わり、動きが慌ただしくなる。軍事的緊張が一挙に高まる佐賀偉人伝「江藤新平」P33

▲この時、佐賀藩のとるべき道を模索する島義勇と大隈重信(歴史寸劇「あの夜のままで。」より)
江戸時代末期1867慶応3鍋島直正
鍋島直正が、大阪にて将軍徳川慶喜と会見。佐賀市史その3 P9
7月28日
室町時代1563永禄6龍造寺隆信
龍造寺隆信、多久・有馬連合軍の残党を攻める。(高城城平井経治(つねはる)攻め)龍造寺隆信 P192
室町時代1570元亀元龍造寺隆信
大友軍が再び海上から龍造寺軍へ攻めよせるが、鍋島直茂らが防戦・撃退。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P101
室町時代1570元亀元龍造寺政家 豊臣秀吉
龍造寺政家が秀吉から従四位下に序せられて羽柴豊臣の姓並びに菊桐紋を免許され、肥前守に任じられた。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P205
江戸時代末期1834天保5鍋島直正
鍋島直正、代官のあり方について、そのあるべき姿を訓示。「代官は人柄を選び申し付けるようにすることは右に述べたとおりであえる。私が猟に出た折、そのほか代官に民間の事情を聞くなど、親しく質問するようにしたい」幕末の鍋島佐賀藩 P36
明治時代1871明治4大木喬任
民部卿をやめた大木が文部卿として着任。(~1873年4月19日)大木喬任年譜考 P94

▲ついに着任!酒を飲みながら教育制度を考える大木喬任(歴史寸劇「酒もってこい!」より)
7月29日
室町時代1548天文17龍造寺隆信
少弐冬尚の城原攻め開始。龍造寺隆信 P117
江戸時代末期1838天保9鍋島直正
鍋島直正が郷村対策、特に代官のあり方について御側から外向へお達しを行なう。幕末の鍋島佐賀藩 P83
7月30日
江戸時代初期1624寛永元妙安尼(お安)
妙安尼(お安)が79歳で息を引き取る。今の妙安寺はその開基にかかる寺。隆信の養女で政略結婚の犠牲になり小田鎮光、波多親に嫁ぎ死別、生別の憂き目を見る。われらの郷土 昔の今日 9月の巻
江戸時代末期1845弘化2鍋島直正
永山貧武、没。藤田東湖からは「諸藩中第一の良友」、佐藤一斎からは「真の善学者」とほめられ、藩主直正の信任が古賀穀堂とともに厚く、藩政の大改革に参画した。われらの郷土 昔の今日 9月の巻
7月31日
明治時代1886明治19大木喬任
大木喬任が心血を注いであたっている民法と訴訟法が、10月に発布されるということが「東京朝日新聞」を通して世の中に発表される。大木喬任年譜考 P429

▲大木喬任
彼らは命の灯が燃える間に、大急ぎで国造りに奔走しました。
ですから、賢人にゆかりのある日を調べて、
さらに、龍造寺、鍋島と続く佐賀の戦国時代の躍動とあわせると
一年365日、毎日なにかしら歴史上の出来事が起こっているのです。
そこで作った「佐賀暦」。
ぜひ、「今日は何の日?」と楽しんでいただければ幸いです。
幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊の、それら出来事に関係する上演の様子とともにお楽しみください。

7月16日
江戸時代後期1763宝歴13売茶翁
売茶翁 没。 89歳ウィキペディア

▲「12賢人バッジ」の売茶翁(12賢人バッジは、佐賀城本丸歴史館で購入できます(1個100円)
売茶翁について (肥前通仙亭さんのHP)
http://www.kouyugaibaisao.com/whats/index.html
7月16日
江戸時代末期1834天保5鍋島直正
鍋島直正、八幡小路に医学寮を建てる。幕末の鍋島佐賀藩 P35
★現代の好生館につながっています。
好生館(現在の佐賀県医療センター)の歴史がわかるHPです
http://www.koseikan.jp/about/history/history/index.html
好生館180周年祝賀会では
おもてなし隊の役者らが出演しておもてなし隊のプロデューサーの桜井が脚本を書いたオリジナル書下ろし劇「あまねく人を」という好生館の偉人たちを演じた大河劇も上演いたしました

▲当日の様子。写真ご提供は12賢人の一人「相良知安」のご子孫、相良隆弘さん

▲「12賢人バッジ 相良知安(12賢人バッジは、佐賀城本丸歴史館で購入できます(1個100円)
相良知安についてのHP(相良隆弘さん作成)
http://sagarachian.jp/main/1.html
江戸時代末期1867慶応3鍋島直正
鍋島直正が徳川慶喜と会談。長州処分の意見を発表。鍋島閑叟(杉谷昭)巻末

▲副島種臣、江藤新平らが京都で奔走するが、結局は長州を征伐する兵を集めることとなる
(歴史寸劇「良いではないか?」の一幕より。京都の貴族から長州征伐のための兵を集めるよう指弾される副島種臣)
明治時代1868明治元鍋島直正
鍋島直正が帰城。郷土史に輝く人びと P50

▲佐賀城の石垣と鍋島直正
明治時代1898明治31大木喬任
民法全編が整い、施行開始。大木喬任年譜考 P537

▲大木喬任、地味ながらコツコツと
7月17日
江戸時代末期1852嘉永5鍋島直正
鍋島直正が作らせた大砲のうち第14番目が完成。やっと使える大砲が誕生。幕末維新と佐賀藩 P39


▲「人は熱でできている」(歴史寸劇「茶飲みに来んか?」で反射炉と人の在り方を江藤、大木に説く鍋島直正)
明治時代1868明治元大木喬任 江藤新平
江藤、大木らの努力が実り、江戸は東京と改称される。(東京遷都へ)大木喬任年譜考 P46

▲東京遷都のアイディアを聞いてもらおうと鍋島直正のもとを訪れる江藤新平と大木喬任(歴史寸劇「茶飲みに来んか?」より)
明治時代1884明治17副島種臣
副島種臣、大木、大隈に10日遅れて伯爵位を授けられる。大木喬任年譜考 P365

▲明治の政府機能の組織をほぼ一人で考案した副島種臣。若い頃の劣等感をふりほどき、やがて当代一の知識人となる
7月18日
明治時代1871明治4江藤新平
「大学」が廃止。かわって「文部省」が創設され、初代文部大輔(卿は不在)に江藤新平がなる。※江藤新平はわずか10日間の就任だったがその間に才腕を振るう。文部省官制、職務規定、権限などを定めた。大木喬任年譜考 P94

▲蘭学舎で勉学に励む江藤新平。需骨としての生涯を駆け抜けた(歴史寸劇「ならば需骨よ」より)
7月19日
室町時代1550天文19龍造寺隆信
龍造寺胤信は大内義隆に偏きを与えられ隆胤、ついで、この19日に隆信と名乗る。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P84
江戸時代末期1864元治元年江藤新平
1862年6月27日の脱藩の罪で、永蟄居の刑を受けていたが、この日に刑を解かれる佐賀偉人伝「江藤新平」P27

▲謹慎中にもかかわらず、牛津の宿に現れた江藤新平 お面をつけてばれないつもりでいる(歴史寸劇「聞き耳えびす」より)
江戸時代末期1867慶応3鍋島直正
鍋島直正が二条城で将軍(徳川慶喜)と会う。郷土史に輝く人びと P49
7月20日
江戸時代末期1854嘉永7鍋島直正
佐賀藩士、本島藤太夫、杉谷擁(手編とる)介、中村奇輔らが蘭館で鋳砲技術の伝授を受ける。7日間。(7月6日に幕府が大砲200門を佐賀藩に製造依頼をしたため許可された)鍋島閑叟(杉谷昭) P24
明治時代1869明治2島義勇
島義勇が北海道開拓使判官に任じられる。佐賀市史その3 年表

▲「札幌のまちを世界中の人に見せてやりたかった・・」敗色色濃い戦場の片隅で、人生を振り返る島義勇。(歴史寸劇「さがんもん」より)
明治時代1888明治21佐野常民
佐野常民の日本赤十字社が初の災害救護事業を実施することになる。7月15日朝7時45分に突如大噴火をはじめた会津磐梯山の惨事にたいし、この日救護員は東京を出発。日赤の創始者 佐野常民 P162

▲熊本地震の際に本丸歴史館の観客の皆様から預かった義捐金をもち
熊本の赤十字を訪れた佐野常民役鷹巣将弥と日本赤十字記念館(熊本市内)
7月21日
安土桃山時代1579天正7龍造寺隆信
龍造寺隆信、伊駒野城主川崎鎮堯征伐。成富信安の活躍により、落城。"龍造寺隆信 P319 「風雲 肥前戦国武将史」 P80 "
安土桃山時代1583天正11龍造寺隆信 鍋島直茂
昨年暮れに龍造寺を断ち、島津氏に通じて叛旗を翻したため、龍造寺に攻められ孤立無援となった鷹尾城の田尻鑑種が龍造寺隆信に起請文を提出して和議成立する。(ただし、和議の条件が煮詰まらなかった内に、豊後から大友軍援軍の報告や島津軍からの兵糧搬入の報が入り、1か月ほど後に再び叛き戦いが再開される(~12月25日和睦、田尻の所領換えに終わり、筑後の田尻氏の抵抗は完全に終止符が打たれる)史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P146
安土桃山時代1592天正20"鍋島直茂 鍋島・龍造寺軍"
文禄の役・オランカイに北上する加藤清正の軍とわかれた鍋島直茂の軍が咸鏡道(ハムギョンド)攻略のため、安辺を発って、この日咸興(ハムフン)に入る。文禄・慶長の役(吉川弘文館) P66
明治時代1888明治21佐野常民
佐野常民の日本赤十字社が初の災害救護事業を実施することになる。7月15日朝7時45分に突如大噴火をはじめた会津磐梯山の惨事にたいし、昨日東京を発した救護員は郡山からは徒歩で峠を越え、この日に猪苗代町に達する。日赤の創始者 佐野常民 P162

▲日本赤十字設立の思いを語る佐野常民(歴史寸劇「良いではないか。」のラストシーンより)
7月22日
安土桃山時代1600 慶長 鍋島勝茂
西軍が東軍の伏見城攻めをこの日はじめる。鍋島勝茂軍も勇躍したため、秀家からの信頼は一層厚くなり、鈴鹿峠を超えて伊勢に進撃する際には先陣の大将を命じられた葉隠物語 P74
江戸時代末期1855安政2枝吉神楊
枝吉神楊、吉田松陰に「奇男子」と称される。(「西遊日記」「吉田松陰全集第10巻」) 会ったのは1850年12月20日~24日の間と思われる(松陰の日記より)楠公義祭同盟

▲「九州に行くなら、佐賀でこの人に会いなさい」と吉田松蔭が奨めたと言われる枝吉神陽(シルエット)
7月23日
江戸時代末期1867慶応3鍋島直正
鍋島直正 はじめて明治天皇に拝謁。※他に京都滞在中に慶喜と会見するが、内容を志士等に明かさず、29日しか京都に滞在せず帰国。大木らは失望する。"大木喬任年譜考 P36※は楠公義祭同盟"

▲幕末から維新にかけてこの人の挙動が注目され、なかなか考えが理解されず、「肥前の妖怪」との異名さえついた鍋島直正
明治時代1870明治3佐野常民
兵部少丞佐野常民が海軍建設の準備のためオランダ人E.W.スヘメールと英国人T.スノードンの二人を兵部省に雇い入れた。日赤の創始者 佐野常民 P49
7月24日
室町時代1570元亀元龍造寺隆信 大友宗麟
大友宗麟は水軍で佐賀城を南から浮盃津に三度目の攻撃。三たび撃退龍造寺隆信 P224
明治時代1888明治21佐野常民
佐野常民が日本赤十字の初の災害救護事業の現場となって3日前からはじまっている猪苗代地帯の救護の現場に赴く(たまたま仙台に出張していた帰り)。福島県知事にあって皇后陛下の思し召しを伝え、負傷者を慰問して、華族から委託された救恤金(きゅうじつきん)を渡すなどする。日赤の創始者 佐野常民 P162
7月25日
室町時代1553天文22龍造寺隆信
龍造寺隆信、一木村を出立して川副に再上陸開始。(鹿江兼明の船にて)龍造寺隆信 P126
室町時代1563永禄6龍造寺隆信
龍造寺側の謀略により不意打ちを食らった多久・有馬連合軍が激怒して、島原弥助を大将として砥川へ攻め寄せ一大決戦を挑むが、龍造寺側は地形に詳しく、丹坂口でこれを撃退、龍造寺側の大勝利に終わる。(百合野の戦いともいわれる)"龍造寺隆信 P190
「風雲 肥前戦国武将史」 61P"
江戸時代末期1861文久元鍋島直正
鍋島直正、三重津に汽鏙製造所を建てる。佐賀県史(中巻) 年表

▲「三重津じゃ、おぬしの故郷の三重津に海軍所を造れ」殿から命を受けた佐野常民(歴史寸劇「蝶よ、渡れ」より)
安土桃山時代又室町時代1586 OR1569天正14 又永禄12鍋島直茂
岩屋城にこもる高橋鑑雲に対して、島津の攻勢の前に、龍造寺軍の後藤、田尻らが攻撃をしかける。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P199
7月26日
江戸時代初期1607慶長12鍋島直茂
3月の隆造寺高房の自殺未遂に対して、鍋島直茂が俗に「おうらみ状」と認知されている書状をしたためる。初期の鍋島佐賀藩 P273
江戸時代後期1864元治元年鍋島直正
京都の政変(7月18日の禁門の変)の報が佐賀藩首脳部の届く 佐賀偉人伝「江藤新平」P33
7月27日
室町時代1553天文12龍造寺隆信
龍造寺隆信、鹿江の威徳寺に着して挙兵。「飯盛城の戦い」(いさかり)"龍造寺隆信 P126 地域別・肥前戦国合戦記(佐賀・長崎県)上 佐賀県1 P44"
室町時代1570元亀元龍造寺隆信 大友宗麟
大友宗麟は水軍で佐賀城を南から攻撃。浮盃津から再来襲。再び、撃退。龍造寺隆信 P224
江戸時代初期1627寛永4鍋島勝茂
衣装制度、祝儀音信振舞定、屋造掟、過代条目を出す。ネット年表
江戸時代後期1864元治元年江藤、大隈、副島、島、大木ら
京都の政変(7月18日の禁門の変)の報が志士たちに伝わり、動きが慌ただしくなる。軍事的緊張が一挙に高まる佐賀偉人伝「江藤新平」P33

▲この時、佐賀藩のとるべき道を模索する島義勇と大隈重信(歴史寸劇「あの夜のままで。」より)
江戸時代末期1867慶応3鍋島直正
鍋島直正が、大阪にて将軍徳川慶喜と会見。佐賀市史その3 P9
7月28日
室町時代1563永禄6龍造寺隆信
龍造寺隆信、多久・有馬連合軍の残党を攻める。(高城城平井経治(つねはる)攻め)龍造寺隆信 P192
室町時代1570元亀元龍造寺隆信
大友軍が再び海上から龍造寺軍へ攻めよせるが、鍋島直茂らが防戦・撃退。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P101
室町時代1570元亀元龍造寺政家 豊臣秀吉
龍造寺政家が秀吉から従四位下に序せられて羽柴豊臣の姓並びに菊桐紋を免許され、肥前守に任じられた。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P205
江戸時代末期1834天保5鍋島直正
鍋島直正、代官のあり方について、そのあるべき姿を訓示。「代官は人柄を選び申し付けるようにすることは右に述べたとおりであえる。私が猟に出た折、そのほか代官に民間の事情を聞くなど、親しく質問するようにしたい」幕末の鍋島佐賀藩 P36
明治時代1871明治4大木喬任
民部卿をやめた大木が文部卿として着任。(~1873年4月19日)大木喬任年譜考 P94

▲ついに着任!酒を飲みながら教育制度を考える大木喬任(歴史寸劇「酒もってこい!」より)
7月29日
室町時代1548天文17龍造寺隆信
少弐冬尚の城原攻め開始。龍造寺隆信 P117
江戸時代末期1838天保9鍋島直正
鍋島直正が郷村対策、特に代官のあり方について御側から外向へお達しを行なう。幕末の鍋島佐賀藩 P83
7月30日
江戸時代初期1624寛永元妙安尼(お安)
妙安尼(お安)が79歳で息を引き取る。今の妙安寺はその開基にかかる寺。隆信の養女で政略結婚の犠牲になり小田鎮光、波多親に嫁ぎ死別、生別の憂き目を見る。われらの郷土 昔の今日 9月の巻
江戸時代末期1845弘化2鍋島直正
永山貧武、没。藤田東湖からは「諸藩中第一の良友」、佐藤一斎からは「真の善学者」とほめられ、藩主直正の信任が古賀穀堂とともに厚く、藩政の大改革に参画した。われらの郷土 昔の今日 9月の巻
7月31日
明治時代1886明治19大木喬任
大木喬任が心血を注いであたっている民法と訴訟法が、10月に発布されるということが「東京朝日新聞」を通して世の中に発表される。大木喬任年譜考 P429

▲大木喬任
Posted by 幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊 at 16:50 | Comments(0) | 佐賀暦