2017年01月08日
初公開★今日は何の日?佐賀暦★1月1日~15日
今年2017年が明治維新150年のプレイアーです。
八賢人おもてなし隊の活動などで、幕末・維新の佐賀の歴史をもっと知りたいという声を多くいただいておりますので
今年限定で、2012年に当協会が各種文献を調べて完成した「今日は何の日?佐賀暦365日」を初公開いたします。
半月単位で掲載させていただきます。
賢人を多く輩出した佐賀だからこそ、毎日が何かの記念日になっておりますね!
お楽しみください
(下記データは、すべて魅力発掘プロデュース協会調べ。出展元は各エピソード単位で明記しています。1872年までは旧暦対応)
「今日は何の日 佐賀暦 1月1日~1月15日)
1月1日室町時代1555天文24神代勝利前晩糸島の長野を発った神代勝利が終夜山を越えた。明け方龍造寺の熊野川代官所を襲い、これを奪還。熊の川に布陣した。勝利が帰ってきたことは領民が知ることとなり、川上神社の神官小野式部は雪の中を行軍してきて手足が凍っている兵に熱い粥を振る舞った。その後、神代軍は三瀬城に復帰。領民はその後から縁起をかつぎ、正月三が日は粥を作ってこの時の勝利の帰還を祝うこととなった。"龍造寺隆信 P148
地域別・肥前戦国合戦記(佐賀・長崎県)上 佐賀県1 P101まで"

1月1日明治時代1873明治6大隈重信明治5年12月3日を太陽暦に改めて、明治6年1月1日(新暦)とする。大木喬任年譜考 P149
1月1日室町時代"1557 OR
1558"弘治3 又 弘治4龍造寺隆信 「第二次 八戸城の戦い」。八戸の城主で隆信の義兄、八戸宗暘が大友に通じ謀反をするとの噂を信じた龍造寺隆信が軍兵を八戸に差し向ける。不意をつかれて狼狽した八戸宗暘は山内の神代を頼り逃れる。領地を没収し、捕らえた妻(隆信の姉)と子供を処刑しようとするが、慶誾尼に諫められ隆信は中止する。(8月には城を破壊)。八戸宗暘、大いに恨む。"「風雲 肥前戦国武将史」 P52
地域別・肥前戦国合戦記(佐賀・長崎県)上 佐賀県1 P46 では1558"
1月2日安土桃山時代1598慶長3"鍋島直茂及び勝茂
龍造寺軍"慶長の役・蔚山城の加藤清正以下守備兵を救援するための陣立てが整う。鍋島軍は先陣を受け持つ。文禄・慶長の役 P235

1月2日江戸時代末期1850嘉永3鍋島直正鍋島直正が本島藤太夫を江川英龍のもとに派遣。郷土史に輝く人びと P47
1月2日明治時代1871明治4伊東玄朴伊東玄朴没(72歳)。佐賀市史その3 年表
1月3日安土桃山時代1573元亀4龍造寺隆信 草野鎮永龍造寺隆信が松浦の草野鎮永を鬼ヶ城に攻める。龍造寺隆信 P265

1月3日江戸時代末期1859安政6鍋島直正鍋島直正がオランダ海軍士官カッティンディーケを招き上の島(神ノ島)へ行き、海防の状況を視察させる。鍋島閑叟(杉谷昭) P18

▲歴史寸劇「あの夜のままで。」より。長州征伐に向かう副島種臣
1月4日江戸時代末期1864文久4大木喬任 副島種臣大木喬任、副島種臣ら、長州征伐から無事帰還。大木喬任年譜考 P32

1月4日明治時代1872明治5大木喬任"大木喬任「学制制定伺」(学制の大綱)を起草し太政官に提出。
※大木の真骨頂「悉く廃し」という文字が踊る。"大木喬任年譜考 P112
1月5日安土桃山時代1598慶長3"鍋島直茂及び勝茂
龍造寺軍"慶長の役・蔚山城を包囲した敵を撃退した鍋島ら救援軍が城に入り今後の軍議を行ない、鍋島父子は持ち場(昌原〈チャンウォン〉)の守備のため、城から戻る。文禄・慶長の役 P237
1月6日江戸時代初期1669寛文9多久(鍋島)茂辰多久(鍋島)茂辰(第三代多久藩藩主)が62歳で没する。勝茂が病に倒れてから臨終まで病床を離れず介護したり、本藩の要職を求められても固辞したり、なにかと名君の誉が高い。葉隠にも嫡子を慕わせるためにわざと自分は家中の者につらくあたったなどと書かれている。※多久藩の名君中の名君われらの郷土 昔の今日2月の巻
1月7日室町時代1545天文14"龍造寺剛忠 以下
龍造寺一門"先年松浦党(鶴田/有馬氏)と激戦の末、竜川から退いた龍造寺軍が陣を整え、逆襲。獅子ヶ城の包囲を続けて、越年し、この日に陥落させる。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P72
1月7日江戸時代中期1787天明7草場佩仙誕生枝吉神陽先生遺稿 巻末年表
1月8日江戸時代初期1628寛永5陽泰院陽泰院没(81歳)。追腹8人佐賀県史(中巻) 年表
1月9日明治時代1874明治7江藤新平江藤新平が再度病気療養を名目に御用滞在を免じて帰県を要望する。(1月19日許可される)江藤新平と明治維新 P278

▲愛国党党首となる
1月10日明治時代1874明治7江藤新平江藤新平 愛国公党 結党。"『江藤新平』毛利敏彦著、中公新書
※ウィキペディアによると1月12日 "

▲さまざまな思いを胸に・・紅葉をながめる最晩年の大木喬任(歴史寸劇「まるぼうろ」より)
1月10日明治時代1874明治7大木喬任 江藤新平大木喬任、東京山王台の茶亭に、江藤新平を招き彼の離京帰郷を中止させようとしたが、果たせず。大木喬任年譜考 P175

▲歴史寸劇「よいではないか」。帰国後の佐野常民
1月10日明治時代1874明治7佐野常民佐野常民が万博終了後、イタリアへ赴く。日赤の創始者 佐野常民 P62

▲「大隈記念館」での顕彰記念上演「故郷(くに)ば、錦で」の大隈重信と思いを受け継ぐ田澤義鋪
1月10日大正時代1922大正11大隈重信大隈重信 逝去 午前4時40分 85歳。
1月11日室町時代1559永禄2龍造寺隆信 千葉胤連が、龍造寺隆信の援けを受けて、千葉胤頼を攻める。胤頼と少弐冬尚が敗死する。冬尚は自刃。33歳。名門太宰少弐氏は源頼朝の時代に祖先武藤資頼が下向して以来の15代370余年で滅亡。佐賀県史(上巻)年表
1月11日室町時代1569永禄12龍造寺隆信 大友宗麟大友宗麟、龍造寺を討つべく出馬。龍造寺隆信 P210
1月11日江戸時代末期1867慶応3佐野常民徳川昭武遣仏使節一行に佐野常民が参加。鍋島閑叟(杉谷昭)巻末

▲ともにオランダ語を学ぶ大隈重信と江藤新平 歴史寸劇「ならば需骨よ」より
1月11日明治時代1874明治7江藤新平 大隈重信夜、江藤新平 帰郷の意志を大隈にうちあける。大隈は「ミイラとりがミイラになるからやめよ」と忠告するが聞き入れられず。大木喬任年譜考 P177

▲「幕府は・・・人間じゃねぇ」 歴史寸劇「喜鵲(かちがらす)」の田中儀右衛門
1月11日明治時代1881明治14"田中からくり儀右衛門
(田中久重)"田中からくり儀右衛門没。82歳。久留米出身、幼少の頃より機械を作ることを好み、御繁昌(ごはんじょう)と称した五穀神社の祭礼に、水カラクリで人形を舞わせる妙技を演じて、「からくり儀右衛門」という異名をとった。嘉永5年(1852)、佐野常民の推挙で佐賀藩の精煉所に入り、大砲、汽罐、汽船、電気等を制作した。後に久留米藩に招かれて銃砲を作ったりもした。維新後、75歳で上京し、芝浦に日本で初めての電気工業の工場を経営した。ウィキペディア
1月12日室町時代1545天文14"龍造寺剛忠 以下
龍造寺一門"龍造寺が5日前に奪いとった獅子ヶ城がさらに奪回される。城番馬渡(もうたい)俊信主従60余りが討死。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P72
1月12日室町時代1559永禄2"龍造寺隆信
小田鎮光"小田鎮光(しげみつ)、隆信に和平を申し込む (長者原の戦いの戦後処理)(この和平により隆信の養女で三国一の美女と言われたお秀の方(阿安とも)が鎮光に嫁ぐことになる。彼女は後日再婚し、夫が朝鮮出兵中に太閤秀吉に言い寄られても操を守ったなど逸話が多い。龍造寺隆信 P169
1月12日江戸時代末期1860安政7小出光彰(千之助)"佐賀藩の小出光彰が勝海舟、福沢諭吉らとともに幕府の遣米使節団に参加し、米船ポーハタン号に乗船し、通詞となり日本を出航する(~5月6日)。渡米中、読書で得た歴史地誌学の知識を活かし政治経済にかかる治安施設の英仏諸国との比較考察を実地視察する。
◆小出千之助(こいで せんのすけ)
学者・教育者:1832(天保3)~1868(明治元)蘭学から英学へ
弘道館に学び、のち蘭学寮に移った。1860(万延元)年わが国最初の遣外使節団"楠公義祭同盟 年表

▲初代司法卿として 江藤新平
1月12日明治時代1874明治7江藤新平江藤新平 民選議員設立建白書に署名。

▲笑う鍋島直正 「肥前の妖怪」とも呼ばれた
1月13日江戸時代1845弘化2鍋島直正幕府老中阿部正弘が、鍋島直正の江戸参府を免除。鍋島閑叟(杉谷昭)巻末

▲人生の晩年にさまざまな思いが去来したであろう大木喬任 歴史寸劇「まるぼうろ」より 紅葉を見あげる
1月13日明治時代1874明治7江藤新平 大木喬任江藤新平 家僕の船田次郎を連れて東京を離れる(横浜より船)。大木、部下を遣わし思いとどまらせようとしたが間に合わず。大木喬任年譜考 P175
1月14日室町時代1545天文14龍造寺剛忠 以下 龍造寺一門少弐冬尚の命で多久の梶峰城攻めの最中に龍造寺胤明らが杵島郡志久峠(北方町志久)で須古の平井氏、佐留志の前田氏と戦ってことごとく討ち死に。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P72
1月15日室町時代1545天文14"龍造寺剛忠 以下
龍造寺一門"少弐冬尚の命で有馬討伐のため長島に向かった龍造寺家門、藤津郡於野原(武雄市橘町小野原)の戦いで有馬勢に敗れ、胤直らが戦死。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P73
1月15日江戸時代末期1854安政元鍋島直正幕府のロシア使節応接掛一行、新砲台見学。(23日反射炉見学の為に来佐)郷土史に輝く人びと P48

▲「おぬし、早起きではなく寝てないのじゃろ?」 義祭同盟の翌朝の島義勇 歴史寸劇「どしたらいいんじゃ?」より
1月15日江戸時代末期1864元治元年義祭同盟志士たち(大木喬任、副島種臣ら)大興寺にて、義祭同盟の志士たちが集まると、「大木喬任日記」に記されている(1月15日、3月15日、4月15日、6月15日、9月15日、10月15日にも同様の記事あり) 枝吉神陽先生遺稿 P305
1月15日明治時代1869明治2大隈重信副島種臣鍋島直正"
大隈重信と副島種臣が大久保利通に呼び出される。大隈にとってははじめて口を利く。版籍奉還の根回しで、すでに薩摩・長州・土佐は合意がとれていて、最後に佐賀に迫るためであった。この話を受けて、その夜、二人で鍋島直正に会いにいく。直正は「思案する」とだけしか答えなかったが、翌日再訪して了承をとる。20日の建白書にしっかり佐賀藩の名前も載ることとなり、これがきっかけで、佐賀藩は遅れをとらず「薩長土肥」というくくりが認知されるようになった。円を作った男(小説・大隈重信) P148

▲京都でともに活動していた頃の江藤と副島 歴史寸劇「良いではないか。」より
1月15日明治時代1874明治7副島種臣前年の10月24日に征韓論が敗れて参儀を辞任し、25日に「御用滞在」として政府から東京を離れることを禁じられていたため、たびたび「お暇願」を出した副島種臣。1月15日には体調不良を切々と訴えて、東京を離れたい旨を記すが聞き入れられず。副島は江藤とともに佐賀へ戻りたかったと思われる。明治時代と副島種臣 P26
「今日はなんの日 佐賀歴史暦」のお問合せは 魅力発掘プロデュース協会 cherrybravo2001@yahoo.co.jp
担当:桜井までお寄せください
文責:桜井(プロデューサー)
八賢人おもてなし隊の活動などで、幕末・維新の佐賀の歴史をもっと知りたいという声を多くいただいておりますので
今年限定で、2012年に当協会が各種文献を調べて完成した「今日は何の日?佐賀暦365日」を初公開いたします。
半月単位で掲載させていただきます。
賢人を多く輩出した佐賀だからこそ、毎日が何かの記念日になっておりますね!
お楽しみください
(下記データは、すべて魅力発掘プロデュース協会調べ。出展元は各エピソード単位で明記しています。1872年までは旧暦対応)
「今日は何の日 佐賀暦 1月1日~1月15日)
1月1日室町時代1555天文24神代勝利前晩糸島の長野を発った神代勝利が終夜山を越えた。明け方龍造寺の熊野川代官所を襲い、これを奪還。熊の川に布陣した。勝利が帰ってきたことは領民が知ることとなり、川上神社の神官小野式部は雪の中を行軍してきて手足が凍っている兵に熱い粥を振る舞った。その後、神代軍は三瀬城に復帰。領民はその後から縁起をかつぎ、正月三が日は粥を作ってこの時の勝利の帰還を祝うこととなった。"龍造寺隆信 P148
地域別・肥前戦国合戦記(佐賀・長崎県)上 佐賀県1 P101まで"

1月1日明治時代1873明治6大隈重信明治5年12月3日を太陽暦に改めて、明治6年1月1日(新暦)とする。大木喬任年譜考 P149
1月1日室町時代"1557 OR
1558"弘治3 又 弘治4龍造寺隆信 「第二次 八戸城の戦い」。八戸の城主で隆信の義兄、八戸宗暘が大友に通じ謀反をするとの噂を信じた龍造寺隆信が軍兵を八戸に差し向ける。不意をつかれて狼狽した八戸宗暘は山内の神代を頼り逃れる。領地を没収し、捕らえた妻(隆信の姉)と子供を処刑しようとするが、慶誾尼に諫められ隆信は中止する。(8月には城を破壊)。八戸宗暘、大いに恨む。"「風雲 肥前戦国武将史」 P52
地域別・肥前戦国合戦記(佐賀・長崎県)上 佐賀県1 P46 では1558"
1月2日安土桃山時代1598慶長3"鍋島直茂及び勝茂
龍造寺軍"慶長の役・蔚山城の加藤清正以下守備兵を救援するための陣立てが整う。鍋島軍は先陣を受け持つ。文禄・慶長の役 P235

1月2日江戸時代末期1850嘉永3鍋島直正鍋島直正が本島藤太夫を江川英龍のもとに派遣。郷土史に輝く人びと P47
1月2日明治時代1871明治4伊東玄朴伊東玄朴没(72歳)。佐賀市史その3 年表
1月3日安土桃山時代1573元亀4龍造寺隆信 草野鎮永龍造寺隆信が松浦の草野鎮永を鬼ヶ城に攻める。龍造寺隆信 P265

1月3日江戸時代末期1859安政6鍋島直正鍋島直正がオランダ海軍士官カッティンディーケを招き上の島(神ノ島)へ行き、海防の状況を視察させる。鍋島閑叟(杉谷昭) P18

▲歴史寸劇「あの夜のままで。」より。長州征伐に向かう副島種臣
1月4日江戸時代末期1864文久4大木喬任 副島種臣大木喬任、副島種臣ら、長州征伐から無事帰還。大木喬任年譜考 P32

1月4日明治時代1872明治5大木喬任"大木喬任「学制制定伺」(学制の大綱)を起草し太政官に提出。
※大木の真骨頂「悉く廃し」という文字が踊る。"大木喬任年譜考 P112
1月5日安土桃山時代1598慶長3"鍋島直茂及び勝茂
龍造寺軍"慶長の役・蔚山城を包囲した敵を撃退した鍋島ら救援軍が城に入り今後の軍議を行ない、鍋島父子は持ち場(昌原〈チャンウォン〉)の守備のため、城から戻る。文禄・慶長の役 P237
1月6日江戸時代初期1669寛文9多久(鍋島)茂辰多久(鍋島)茂辰(第三代多久藩藩主)が62歳で没する。勝茂が病に倒れてから臨終まで病床を離れず介護したり、本藩の要職を求められても固辞したり、なにかと名君の誉が高い。葉隠にも嫡子を慕わせるためにわざと自分は家中の者につらくあたったなどと書かれている。※多久藩の名君中の名君われらの郷土 昔の今日2月の巻
1月7日室町時代1545天文14"龍造寺剛忠 以下
龍造寺一門"先年松浦党(鶴田/有馬氏)と激戦の末、竜川から退いた龍造寺軍が陣を整え、逆襲。獅子ヶ城の包囲を続けて、越年し、この日に陥落させる。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P72
1月7日江戸時代中期1787天明7草場佩仙誕生枝吉神陽先生遺稿 巻末年表
1月8日江戸時代初期1628寛永5陽泰院陽泰院没(81歳)。追腹8人佐賀県史(中巻) 年表
1月9日明治時代1874明治7江藤新平江藤新平が再度病気療養を名目に御用滞在を免じて帰県を要望する。(1月19日許可される)江藤新平と明治維新 P278

▲愛国党党首となる
1月10日明治時代1874明治7江藤新平江藤新平 愛国公党 結党。"『江藤新平』毛利敏彦著、中公新書
※ウィキペディアによると1月12日 "

▲さまざまな思いを胸に・・紅葉をながめる最晩年の大木喬任(歴史寸劇「まるぼうろ」より)
1月10日明治時代1874明治7大木喬任 江藤新平大木喬任、東京山王台の茶亭に、江藤新平を招き彼の離京帰郷を中止させようとしたが、果たせず。大木喬任年譜考 P175

▲歴史寸劇「よいではないか」。帰国後の佐野常民
1月10日明治時代1874明治7佐野常民佐野常民が万博終了後、イタリアへ赴く。日赤の創始者 佐野常民 P62

▲「大隈記念館」での顕彰記念上演「故郷(くに)ば、錦で」の大隈重信と思いを受け継ぐ田澤義鋪
1月10日大正時代1922大正11大隈重信大隈重信 逝去 午前4時40分 85歳。
1月11日室町時代1559永禄2龍造寺隆信 千葉胤連が、龍造寺隆信の援けを受けて、千葉胤頼を攻める。胤頼と少弐冬尚が敗死する。冬尚は自刃。33歳。名門太宰少弐氏は源頼朝の時代に祖先武藤資頼が下向して以来の15代370余年で滅亡。佐賀県史(上巻)年表
1月11日室町時代1569永禄12龍造寺隆信 大友宗麟大友宗麟、龍造寺を討つべく出馬。龍造寺隆信 P210
1月11日江戸時代末期1867慶応3佐野常民徳川昭武遣仏使節一行に佐野常民が参加。鍋島閑叟(杉谷昭)巻末

▲ともにオランダ語を学ぶ大隈重信と江藤新平 歴史寸劇「ならば需骨よ」より
1月11日明治時代1874明治7江藤新平 大隈重信夜、江藤新平 帰郷の意志を大隈にうちあける。大隈は「ミイラとりがミイラになるからやめよ」と忠告するが聞き入れられず。大木喬任年譜考 P177

▲「幕府は・・・人間じゃねぇ」 歴史寸劇「喜鵲(かちがらす)」の田中儀右衛門
1月11日明治時代1881明治14"田中からくり儀右衛門
(田中久重)"田中からくり儀右衛門没。82歳。久留米出身、幼少の頃より機械を作ることを好み、御繁昌(ごはんじょう)と称した五穀神社の祭礼に、水カラクリで人形を舞わせる妙技を演じて、「からくり儀右衛門」という異名をとった。嘉永5年(1852)、佐野常民の推挙で佐賀藩の精煉所に入り、大砲、汽罐、汽船、電気等を制作した。後に久留米藩に招かれて銃砲を作ったりもした。維新後、75歳で上京し、芝浦に日本で初めての電気工業の工場を経営した。ウィキペディア
1月12日室町時代1545天文14"龍造寺剛忠 以下
龍造寺一門"龍造寺が5日前に奪いとった獅子ヶ城がさらに奪回される。城番馬渡(もうたい)俊信主従60余りが討死。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P72
1月12日室町時代1559永禄2"龍造寺隆信
小田鎮光"小田鎮光(しげみつ)、隆信に和平を申し込む (長者原の戦いの戦後処理)(この和平により隆信の養女で三国一の美女と言われたお秀の方(阿安とも)が鎮光に嫁ぐことになる。彼女は後日再婚し、夫が朝鮮出兵中に太閤秀吉に言い寄られても操を守ったなど逸話が多い。龍造寺隆信 P169
1月12日江戸時代末期1860安政7小出光彰(千之助)"佐賀藩の小出光彰が勝海舟、福沢諭吉らとともに幕府の遣米使節団に参加し、米船ポーハタン号に乗船し、通詞となり日本を出航する(~5月6日)。渡米中、読書で得た歴史地誌学の知識を活かし政治経済にかかる治安施設の英仏諸国との比較考察を実地視察する。
◆小出千之助(こいで せんのすけ)
学者・教育者:1832(天保3)~1868(明治元)蘭学から英学へ
弘道館に学び、のち蘭学寮に移った。1860(万延元)年わが国最初の遣外使節団"楠公義祭同盟 年表

▲初代司法卿として 江藤新平
1月12日明治時代1874明治7江藤新平江藤新平 民選議員設立建白書に署名。

▲笑う鍋島直正 「肥前の妖怪」とも呼ばれた
1月13日江戸時代1845弘化2鍋島直正幕府老中阿部正弘が、鍋島直正の江戸参府を免除。鍋島閑叟(杉谷昭)巻末

▲人生の晩年にさまざまな思いが去来したであろう大木喬任 歴史寸劇「まるぼうろ」より 紅葉を見あげる
1月13日明治時代1874明治7江藤新平 大木喬任江藤新平 家僕の船田次郎を連れて東京を離れる(横浜より船)。大木、部下を遣わし思いとどまらせようとしたが間に合わず。大木喬任年譜考 P175
1月14日室町時代1545天文14龍造寺剛忠 以下 龍造寺一門少弐冬尚の命で多久の梶峰城攻めの最中に龍造寺胤明らが杵島郡志久峠(北方町志久)で須古の平井氏、佐留志の前田氏と戦ってことごとく討ち死に。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P72
1月15日室町時代1545天文14"龍造寺剛忠 以下
龍造寺一門"少弐冬尚の命で有馬討伐のため長島に向かった龍造寺家門、藤津郡於野原(武雄市橘町小野原)の戦いで有馬勢に敗れ、胤直らが戦死。史伝「葉隠の名将」鍋島直茂 P73
1月15日江戸時代末期1854安政元鍋島直正幕府のロシア使節応接掛一行、新砲台見学。(23日反射炉見学の為に来佐)郷土史に輝く人びと P48

▲「おぬし、早起きではなく寝てないのじゃろ?」 義祭同盟の翌朝の島義勇 歴史寸劇「どしたらいいんじゃ?」より
1月15日江戸時代末期1864元治元年義祭同盟志士たち(大木喬任、副島種臣ら)大興寺にて、義祭同盟の志士たちが集まると、「大木喬任日記」に記されている(1月15日、3月15日、4月15日、6月15日、9月15日、10月15日にも同様の記事あり) 枝吉神陽先生遺稿 P305
1月15日明治時代1869明治2大隈重信副島種臣鍋島直正"
大隈重信と副島種臣が大久保利通に呼び出される。大隈にとってははじめて口を利く。版籍奉還の根回しで、すでに薩摩・長州・土佐は合意がとれていて、最後に佐賀に迫るためであった。この話を受けて、その夜、二人で鍋島直正に会いにいく。直正は「思案する」とだけしか答えなかったが、翌日再訪して了承をとる。20日の建白書にしっかり佐賀藩の名前も載ることとなり、これがきっかけで、佐賀藩は遅れをとらず「薩長土肥」というくくりが認知されるようになった。円を作った男(小説・大隈重信) P148

▲京都でともに活動していた頃の江藤と副島 歴史寸劇「良いではないか。」より
1月15日明治時代1874明治7副島種臣前年の10月24日に征韓論が敗れて参儀を辞任し、25日に「御用滞在」として政府から東京を離れることを禁じられていたため、たびたび「お暇願」を出した副島種臣。1月15日には体調不良を切々と訴えて、東京を離れたい旨を記すが聞き入れられず。副島は江藤とともに佐賀へ戻りたかったと思われる。明治時代と副島種臣 P26
「今日はなんの日 佐賀歴史暦」のお問合せは 魅力発掘プロデュース協会 cherrybravo2001@yahoo.co.jp
担当:桜井までお寄せください
文責:桜井(プロデューサー)
室町時代
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